昭和54年04月29日 朝の御理解
御神訓 一、
「子を産むは、わが力で産むとは思うな。みな親神の恵むところぞ。」
神様が恵んで下さる。そのお恵みをお恵みと悟らせてもろうて、その神様にゆだね任せると言う事ですが、これは子を産むと言う事は、出産と言う事でしょうけれども、御道の信心はここんところを根本に分からせてもらう。一切が神様のお恵みを受けなければ生み出す事も出来ないんだという。一切が神様のおかげによらなければ成就しないんだ、出来ないのだと、これは本当の意味に置いても成就、ね。
自分の我力でと思っておるけれども、その我力その物とても、神様のおかげを頂かなければ、その力が出らんのだと、ね。私は気張ったと言うてもその気張る力をやはり頂かなければ気張られんのだと、ね。そこにいよいよ神様を深く知らせてもらい、神様をに言えば、ゆだねるとか任せると言う事になってくる訳。ところがなかなかゆだねるとか、任せるとかと言うても、なかなか出来ません。任せれるように思うておってもこの事だけは任せられん、と言った様な事がございます。
そこに信心の稽古がいるんですよね。次の御教えの中に「懐妊の時腹帯をするより心の真の帯びをせよ」という。出産言うならば、妊娠そして十月十日という間をお腹に入れさせてもらう。その間とてもです、言うならもうそれこそ真の帯びをせよと、こう腹帯をするより真の帯びをせよというところが信心なんです。なかなか真が出てこない。出産の時よかりものによかるより、ね、神に心を任せてよかれよとこう。よかれものというのは、こう縋るもの、ね、もたれる物という事でしょう。
そういう事じゃなくて、もう神様に心を任せと、それがまたなかなか出来ません。人に頼る物に頼る、金に頼ると、言う事になって、神様に心を任せてという事がね、そこんところが信心です。日頃信心の稽古をしとかんと分からんのです。私今朝方、本当に自分ながら、あんまり自分の信心がこんな、このくらいな事じゃったかなと思う様な、お夢を頂いたんです。
私がこうある町をこう一人でこう、まぁかすみぼっちを歩いておるんです。そしたらちょっとこう、あぁ人目の少ないよなひっみの所に、栄四郎がこうちょっとしたなんか、あぁあのね、何か言っているんです。もうそれこそ何て言うでしょうかね、今の若い方達のいきな格好をしてそしてよく見るととそれが、言うならあのう、やし(香具師)というのがおりますね。なんかあのうインチキ博徒ような事をやってるわけです。
そして言うなら、中学生くらいな子供にね、例のあの調子でね一度やってみないかと言うて、こう進めておるところを私が通り合わせたんです。もう本当にビックリしましてからね、お夢ん中でね。本当にお道の教師としての、言うならば、おかげを頂いておりながら、どうしてこういう事になっておるのだろう、ね。それお前はどうしてお前はこういう事をやっておるのかと。したら深刻な顔をして彼が言う事は、「これには親先生、深い事情のある事だ」とこう言うんです。
どんな深い事情があるか分からんけれども、ね、取次ぎ者としてのお道の教師の資格まで頂いておるお前が、しかも何か普通の商売人から、なんかって言う様ならええけれども、こういう人をだましたり、言うならそういうやし(香具師)仲間に入って、こういう仕事の商売をすると言う事はどうした事かと。もう早速止めて早う家に帰れと言いましたら、その帰られないと、ね。深い事情のある事だと。そして言う事はです、「親先生が清水の次郎長なら、私はね、増川仙衛門になる」とこう言うんです。
確か次郎長の二十八人衆の中に、なんかそう言う様な名前の人がおりましたよね、何とか仙衛門っていうのが。そういう者が増川仙衛門と言うんです。言うならば、私はやし仲間、言うなら遊び人の中にあって、遊び人の神様になる、と私は思うと言うわけなんです、ね。増川というのは、いよいよ川が水が増してお恵みが、と言う事でしょう。仙衛門の仙という字は人偏に山というふうに書いてある、仙人の仙ですから、ね。まぁ言うならば、ね、私はねやし仲間の、私が商売人としております時にです、ね。
とてもお道の教師などとは思ってもいなかったし、それこそ商売の神様にはなろうと思いよったばってん、金光様の先生になろうなんていっちょん思ってなかった。(笑い)本当に商売の神様と言われるくらいな、一つ商人になりたいという願いは持っておったけれどもです。栄四郎はどう言うかというと、自分はその遊び人、やし仲間の神様になろうと思うておるとこう言うんです。
私その時の実感というものが、実感を夢の中でその感じてから、やぁ私の信心もこのくらいのもんだったかな、と改めて思った事ですけれども。私が心の中で思うておる事、神様、ね、どういう修行でもさせてもらいます。どういう改まりでもさせて頂きますから、どうぞ栄四郎の上におかげを下さいと言うて、そう願っておる。例えばあの幹三郎がもう死ぬか生きるかという時にですら、私はこんなあんな気持ちになったと、夢の中での気持ちになったような事なかったんです、ね。
神様にお願いをしての事であるから、お取次ぎを頂いておる事であるから、もう生死は神様にゆだねてある、任せてあるというんですから心が騒がなかった。ところが夢の中でです、私が感じた事はもうそれこそ、それこそ珠の緒の切れないほどに、祈念ばかえにビックリぎょうてんしてる訳です。どうしてこういう、まぁ性格とは言いながら、ね。ちょっとこう粋な格好をして、ね。にいちゃん風の、しかもそのまぁインチキ博徒のような事をやって、それで生活をたてるという。
そこには深い事情があっての事だと言う、ね。だから必ずしも、言うならばお道の信心によって生神様を目指す。私は遊び人の中の遊び人。言うなら遊び人の中の神様になろうと思うておる、これには深い事情がある事だと、そう言う事を言うてと私が言うておる。そしてここに思うておる事は、これはとても勿論神様のおかげを頂かな出けん事っちゃないけれども、その為には私が、ね、どういう修行でもさせてもらう。
どういう改まりでもさせて頂きますから、どうぞまともな栄四郎の上におかげを下されと言うて、祈っておるところで目が覚めた。私はこれが日頃の時であったら、ね、もうそれこそ放任した気持ちになるだろう、だいたいなれなきゃならないはずなんだけれども、放任しきらんでおる。言うなら今日の御理解で言うならば、いうなら自分の力でなんとかしようとしておる、ね。勿論そのなんとかすると言う事は、自分の力というが、これは神様にお縋りをしてです。
どこにどういう御神意、御深慮があるか分からんけれども、お道の教師にまで御取立て頂いておる者が、ね、教師として人の助かる事のために御用をさしてもらわなきゃならんのに、ね、インチキとまぐれ、言うならまぁだ年端もいかん中学生ぐらいなと、そのそういう博徒賭博を進めておると言う様な、ね。なるほど不良には不良の仲間がおる、がおりましょうが、その不良の中の神様になろうち。(笑い)増川仙衛門になろうと思うておるとこう言う。
仙の力を雪にした事ではない、神様に一切をお任せしてある、どう言う事であろうが。昨日は、熊本の松村さんからお電話があって、中学に入ったばかりでしょうか、すがお君という一人息子がおります。それがそのう、倒れて意識不明になっておるからどうぞ、というお届けがあった、ね。私はそれを聞いておって、その夢の中で私が思っておるんです。夢の中ではない、目が覚めてから思っておるんです。皆がここでは私の事を親先生、親先生、親神様と言う様な言葉で表現されるが、ね。
言うなら栄四郎だけが私の子じゃない。合楽にご縁を頂いておる全部の人が、言うならば親子の情を持って親先生と言い、親神様と言い、ね。そして願ってお取次ぎを頂いて、親先生の信心によって助かって、助かろうとこうしておる。私はそういう人達の一人一人の上に、いよいよ私が夢の中で感じたように、この子供が立ち直るなら、子供、子供がおかげを頂くなら、どういう修行もいといません。どういう改まりもさせてもらいますと、夢の中に思うておったが、ね。
ここには一人一人の、言うなら子供の上にどういう難儀なお届けがあっても、ね、その、この実感を持ってお取次ぎをさせて頂くなら、言うなら助かる事だろうなと思わせて頂いた。そして言うならその松村すがお君が倒れて意識が出ないというそのお届けもです、ね。なんか知らん、言うならば寝ながらではあるけれどもです、実感としてね、私が改まりますから、私が磨きますから、どうぞおかげをと願っておるのです。もうその夢の中の実感がそのまま信者一人一人の上に賭けられる。
あぁこういうおかげ、こういうところが、私の信心の中に、まだまだ欠けてておったんだなと言う様な事を、思わせて頂きました。ね、まぁ言うならば、あまりもの信心、信心じゃという風に言われるけれども、ね、私共が内容のない度胸、内容のない、ままよと言う様なものではなくて、内容あっての、それでいて縋らずにはおられない、その縋るからには、ね、どういう修行もさしてもらいます、いといません。又どういう改まりおもさせて頂きます、どうぞ立ち直らせて下さい。
言うならおかげを下さい、助けて下さいと言う事になってくる。子を産むは我が力で産むと思うな。みな神の恵む所ぞと。確かにもうその通りなんです。恵まれると言う事も、ね、出産をすると言う事も、神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないように、言うならばこれはもう全ての事がそうなんです、ね。お互い難儀と思うておるけれども、それがお徳を生み出す所の言うならば、心の中に宿ったようなもの。その難儀を神愛と悟らせてもろうて、大事に大事にそれを頂いて行くところから、ね。
思いもかけないおかげとも、思いもかけない力とも徳とも、なってきて、ね、産みなされてくる、ね。頂く信心から産みなす信心と言う様な事が、ま教団で盛んに言われております、ね。だからその言うならば、難儀と思う難儀と、ね、私共のその頂き方、心というものが、ね、それを神の恵みのものとして受けるときに、そこに産みなす働きというものが生まれてくる。それも言うならば、ね。懐妊の時腹帯をするより、心の真の帯びをせよと。その難儀な問題をです、あの人に頼んだりこの人に頼んだり、ね。
と言う様な事ではなくてです、もう神様一筋に御縋りをする、ね。人為的的なものでいわゆる腹帯をするより、真の帯びをさせて頂く、というその手立てがです、分からなきゃならない。よかる者によかるより神に心を任せて心安かれと言う様にです、ね。その神様に、言ういわゆるゆだね任せるというまでの、一つの過程というその中にです、ね、縋らずにはおられない縋らずにはおられない、そこに言うならばどういう修行もいといません、どんな改まりでも致しますから、と縋ると言う事はそう言う事だと思うです。
ただどうぞお願いします、お願いしますと言うたのでは本当のすがりじゃないと思うです、ね。真を現して、言うならばお願いしますと言うたからには、ね、改まりもします、磨きもします、どんな修行でもさせて頂きます、どうぞおかげを下さいと言う事にならなければいけんのです、ね。今日は参ってお頼みしたお願いをした、ね、それが難儀を感じれば感じるほどです、私が夢の中で感じたように、もう本当にここに立ち直らせて下さるならばどんな修行もいといません、どういう改まりも致します。
そこに言うならば、縋ると言う事になってくる。そこに神様の働きを感じる事が出来るのです。神様の特別の働きが現れてくるのです、ね。そういう体験を、言うならば積みながら、この神様は真を持ってすがればおかげが頂けれる、しかもそれがだんだん神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないという。私共はゆだねておるようであり、任せておるようであり、一心に縋っておるようであってもです、私は夢ん中で感じたような縋り方でない事に改めて気付かせて頂いて。
あぁ自分達の縋るというのと、ただお参りをした、お願いをしたと言うだけに過ぎないな、ね。改まりの約束もなからなければ、言うなら修行の裏付けもない、ね。そういう所を通って私は始めて、ね、神様のおかげが十全に頂けて来る様になり、同時に自分の我力というものがだんだん無くなって、ね、我力ではいかんもう神力一つに縋る、ね。「人力に見切りをつけて神力に縋れ、人力自ずから湧く」という、ね。
その過程においての人力、そこんところを私は今日は縋るとか改まるとか、ね。修行というふうに聞いて頂いた。そこんところが、出来てくるとそこに神様が、ね、その真を受けて下さる。そこから神様が現れて下さる様になる、ね。そこに言わば神力に縋るという事。そこから向こうに湧いてくる人力は、もうそのままが神力である。人力おのずから湧く、ね。お産を例えばするでもです、ただ気張るばかりではいけない。
自ずと気張られずにはおられない、体全身にそういう力がみなぎってくる、ね。これは人間の力じゃあない、ね。又はなら私が気張っておる、と言う事も言いますけれども、ね、神力、人力が一体となっての言うならば、ね、人力自ら湧くと言う様な、信心が出来るようになると、信心がいよいよ有り難いもの、これは出産の事だけだけではない、全ての事柄の上において、私共が難儀と感じておる、おかげを受なければならないと思うておる、その事柄の全てに通じる事だと思うのですよね。
どうぞ。